元農水次官熊沢被告の息子殺害の裁判の報道を見て、解決できない世の中の理不尽を感じた。
熊沢被告は息子と一緒にコミケに行ったりして、自分のできることは真摯に行ってきたと思う。一人暮らしをさせたのも自立してほしかったからだと思う。
ところが精神学の専門家から言わせると、上から目線で適切ではないようだ。寄り添う感覚がみられないという。
つまり勤め人としては最高位に出世する才能があったが、子育ては向いていなかったということだ。完璧な人間はいないのだから仕方がない。残念なのは外部に相談できなかったことだ。
熊沢被告は彼が学んで正しいと思っていた方法で生きていたと思う。しかし、その方法は完璧なものではなく、その方法を全力で学んで適応してきた被告には別な視点をもつ発想や余裕はなかったようだ。
殺人自体は被告の責任としても、息子が病んでしまったのは、被告が必死に適応しようとしてきた社会システムのためだと感じる。
しかし、その社会システムは陰謀論のように特定の誰かが意図的に作ったものではなく、合成の誤謬のようなものなので理不尽としか言いようがない。
棚ぼたで得た二世三世ではなく、厳しい勉強に必死で取組み最高学府に入り、激しい出世競争を自力で頑張ってきたのだ。
私りんたろうは、家族関係や組織の上下関係をどのように生きてきたのかを振り返ってみた。
親はかなり厳しく、体罰をうけた。怪我をするほどの体罰ではなく、手や物ではたかれる類だが。どう対処したかというと耐えた。たまに口答えをすることはあったが、暴力で返すことはなかった。
会社に入社して配属先の上司はひどいパワハラおやじだった。体育会系の会社なので全社の3割ほどはパワハラおやじだったが、そのなかでも3本の指にはいる人物だった。
そんな自分の体験と比較すれば、熊沢被告の息子に対する接し方はうらやましいほど紳士的だ。あんな親や上司だったら尊敬する。それとも実際息子だったら病むのだろうか?
りんたろう自身は耐えているうちに親は死んだ。そして会社はひどい上司から長年異動させてくれることがなかったのだが、彼が病死することで解放された。
家族は絶対的な物、会社は絶対的な物。こんな風潮は変わってきてはいるが、まだまだ根強いものがある。